2014/04/24

ノーイベント グッドライフの革新性 〜非日常の中の日常の「素敵」〜

 ゆゆ式は偉大である。それはその面白さに依ると言うよりは、むしろ思想の革新性に依るものだ。

 ゆゆ式の思想である「ノーイベント グッドライフ」。この概念は、従来日常系と呼ばれてきた作品がいかに非日常的な思想で描かれてきたかを、はっきりと認識させた。それゆえにゆゆ式は偉大なのである。

 これまでの一般的な日常系で描かれてきた「素敵」というのは、非日常の中に存在するものだった。客観的にはありふれたイベントである入学式や文化祭であっても、それを体験する個人にとっては大切な思い出になる。それはとても素敵なことだ。そういう思想に基づいた「素敵」が、これまでの日常系で描かれてきた一般的な「素敵」だ。

 この種の「素敵」にズームアップし、作品自体を完成度の高い青春ドラマに作り上げたのが、アニメけいおん!だ。平沢唯の軽音部で過ごした3年間は、客観的にはごくありふれた高校生活だけれども、彼女自身にとってはかけがえのない思い出である。そして彼女に感情移入した視聴者たちも、そのかけがえのなさを共有することで感動したわけだ。

 このような、日常の中の非日常に「素敵」が存在するのだとする思想は、本質的にはスポーツ系やファンタジー系と同じ立場である。つまり、一見何もないかのように見える日常の中に、ズームアップすることで小さな非日常を見つけるという技法を用いることで、非日常的な「素敵」を拾い上げているわけだ。

 しかしながら、ゆゆ式で描かれる「素敵」は、このようなものとは全く異なった、言わば真の日常的「素敵」である。

 まず、ゆゆ式では基本的に、イベントらしいイベントがスルーされている。入学式や文化祭は回想の中でしか言及されない。正月も初日の出や初詣などは描かれず、いつも通りの「唯ちゃんち」が主な舞台である。進級の際も目立って特別なことはなく、後輩ができたり新しいクラスメイトと話したりすることもない。他の日常系と比較しても、ゆゆ式の登場人物たちは際立って無変化な日常を送っているのである。

 ゆゆ式において唯一、非日常的な要素が描かれたのは、アニメ最終話の海水浴編である。しかし私は、むしろここにこそゆゆ式の思想が表れているように思う。彼女たちはせっかくの海水浴だというのに、遠泳もビーチバレーもせず、言葉遊びに興じる(一体「モンテディオ山形」のどこに、海水浴要素があると言うのだろう)。また更に象徴的なのは、縁の台詞だ。彼女は海外の海と日本の海を比較して、「日本には唯とゆずこがいる」と述べるのだ。海になど行かなくても、2人には会えるというのに。

 これはけいおん!に代表される一般的な日常系とは対照的に、非日常の中で、あえて日常にズームアップしていると言える。つまりこの海水浴編では、海という非日常を前にして真っ向からその特別さを無視することで、「ノーイベント グッドライフ」――何もない日常にこそ「素敵」が存在するのだと主張しているのだ。これは従来の日常系とは正反対の思想であり、ゆゆ式が極めて革新的な日常系であることの証左だ。

 ここまで読んでくれた方には、どうだろう、少しはゆゆ式の革新性が伝わっただろうか。今回はアニメゆゆ式を前提として話を進めてきたけれども、もちろん原作においてもこの思想は否定されない。けいおん!スタッフが原作けいおん!からドラマ性を見出したのと同じように、ゆゆ式スタッフもまた、原作ゆゆ式から「ノーイベント グッドライフ」を見出したのだと思われる。アニメスタッフには惜しみない賛辞を贈りたいものである。

 ちなみにゆゆ式にはもう一つ、「漫才師ではない」という重要な思想があるけれど、それについてはまた別の機会にということで、この文章はここで終わる。最後まで読んでくれた方、ほんとに愛してるよ〜(縁ちゃん風

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